仮面(元)、1Kの隠れ家

心が暇なので、厨2病だった頃に思いを馳せて、痛々しいものを書きたい

仮面浪人が嫌いな理由

みんな知ってる通り、今年1年仮面浪人をやってきて、あとまぁもう少し仮面浪人をさせてもらう身でこういうことを言うのはどうかしてると思うが、仮面浪人はゴミだと思う。

なぜなら仮面浪人をするという時点で入学した大学に対して、「俺、私の実力にそぐわないのでこんなゴミ大学辞めてやる」といった意思が存在する。

これはとても失礼だ。
誰も入ってくれと頼んだ訳でもないのに、勝手に受験して勝手に入学しておいて、入学した大学を小馬鹿にするのはどうかしている。志望校に受からなかった身なのだから、むしろ自分の進学先として受け入れてくれた大学を評価すべきでは無いのか。
志望先に受からない程度の実力なのに、一丁前に立派なところを志望して、実力にそぐわないのはどちらだよお前、という話だ。


まぁこんなうんちくを垂れても仕方ない。それでも、そんな恥を承知で仮面浪人をしているわけだから、何かしら理由でもあるのだろう。

だが、恥ずべき行為である以上、あまり公言したくないと思うのが常識だ。実際僕はTwitterでは仮面先を、大学では仮面浪人しているということを、それぞれ内緒にして、公言していない。
なぜなら恥ずかしいからだ。

だが、Twitterを含め、ネットではまるで仮面浪人がなにか立派なことをしているのかとも言いたげな雰囲気でドヤ顔で公言し、受験を舐め腐り、テキトーなコンテンツにしてヘラヘラしている連中が大量にいる。仮面浪人という時点で僕はあまり好きじゃないが、ここまで来ると吐き気すら感じる。
受験しないことがコンテンツ。Fランに所属しながらそれをバカにすることがコンテンツ。実力がそぐわなければ自虐ネタのようにして受験から逃げ、結局共通テスト(前年度以前ならセンター)、2次試験前には諦めてテキトーにもう一浪するか残留するのが関の山だ。僕の嫌いな特定の仮面浪人を例にとると、彼は上記のノリに全て当てはまる上に、度し難いほど頭が悪く、今年の共通テストではSNSで他の受験生に迷惑をかけるような投稿までしていた。
彼を擁護するツイートには
「身内に対するネタだから」
と言ったものがあるが、それを考慮してもなおどこがネタかも分からないし、面白くもない。残念な身内だなと思う。余程面白くない友人に恵まれたか、友人がいなかったかの二択だ。可哀想だ。

まぁでも彼を正義ヅラで集団リンチするネットのノリも同じくらい嫌いなのでこの件に関しては彼のことを少しは擁護してあげたい。「馬鹿だからしょうがない」だろと。



とまぁ、特定の個人にヘイトを向けても仕方がない。
とりあえず僕の嫌いな仮面浪人とは、親には無駄に金をかけさせ、大学を侮辱し、受験生にまで迷惑をかける最悪な存在だ。受験業界の癌だ。

みんな消えてしまえばいいのに。

本当の陰キャラ

皆は陰キャという存在が嫌いだと思う。


性格が暗いやつ、全然喋らん奴、やっと喋ったと思えば上手く喋ることが出来ずに吃って何言ってんのかわからんやつ、協調性がないやつ、Twitterで囲われナオンを囲うやつ、女性経験が少ないが故に成人前後の年齢でやたら女性と関わろうとしてるけど、これまた女性経験少ないが故に気持ち悪がられガチなやつ、見た目キモい奴

あげたらキリがないくらい、「クラスで浮いてそうな奴」は沢山いる。そしてこういう人間は色んなところで敬遠されがちであり、嫌われている。


でも僕はこういう人間に対して優しくしていきたいと思う。
これは単純に自分は優しくしていこうなんて意気込みではない。

いじめっ子に手を差し伸べようとする奴はいつだっていじめられたことの無いようなやつだし、性格に難がないからこそ色んな人に手を差し伸べる余裕があり、そういう人はむしろ好かれる側だ。

だから「残念な奴」を理解しようとしないし、残念な奴を残念な奴だと思うことすらないと思う。
でも、残念な奴を受け入れるには、残念な奴を残念だと認識した上で受け入れてあげる必要があると思う。


僕が高2の時くらいだろうか。陽キャ陰キャという言葉が流行りだして、最近ではすっかり日常に浸透しているように感じる。この、陽キャ陰キャという言葉の、陰キャという言葉は今の自分にピッタリだと思う。

まず僕の個体能力として、見た目も身体能力も知能も人並み以下で、かと言ってそれを逆にウリにできるほど突出して悪い訳でもない。顔を例にとると、アデノイドでもデブキモ顔でもないが、チー牛あたりが最も適切な表現である。

そして交友関係だが、大学では仲のいい人なんていない。しかし、ギリ健常者なのでグループワーク等では普通に話はするが、その人とはそれっきりであり、顔を合わせても挨拶する程度の関係の人すら今はいない。
昼休みは学食行ったり、学内のコンビニでパンなんかを買ったりする人も多いのだろうが、そもそも人が多すぎて怖いので、学外の付近のコンビニで100円のパンを買ってきて、暗い空き教室でひとりぼっちで飯を食っている。
この地域には飯を食いに行く友達なんて居ないから、必然的に外食はほぼせず、休みも部屋でひきこもって、寝るか勉強をしている。


このくらい誰よりも大学生活に関していえば残念な奴であり、陰キャ必須条件である女性関係の欠如なんかは勿論である。

中高時代は共学だったが、女子生徒と友達になったことすらない。なのでLINE等の連絡先に母校の女子生徒は一人もいない。また、一浪の時予備校で初めてLINEを交換した女性に1000回飯を誘って1000回断られているので、Twitter等で必死に女性とエンカしたがる人を見ると心が痛くなる。
というかなんなら、女性に軽く虐められてたこともあるので、普通に女性と会話するのはあまり好きではないし、交際相手が居ないことに関しても別段引け目を感じたりはしない。


お分かりだろうか。Twitterで皆が「残念な奴」だと思って小馬鹿にしてる連中と同じ経験を、僕は過去から現在に至るまでに全て経験しているのだ。

彼らは、今、本当の陰キャラとして羽化しようとしている。

彼らにはこの先たくさんの辛いことが待っていることを僕にはわかっている。 Fateのアーチャーが過去の自分である士郎に「おい、この先は地獄だぞ」と言っているようなものである。

本当に陰キャを理解しているものとして、彼らを受け入れたいし、彼らを祝福してやりたい。陰キャの何が悪いというのだ。

僕はたまたま運が良くて、女という悪魔のような存在に騙されたことも、金盗ってくるようなやばいやつに絡まれたこともないが、彼らはこの先、そのような被害に合わないとも限らないだろう。いや、既に被ってる可能性まである。


なので僕は陰キャを自分の囲われステータスのための養分だとしか思っていないくせに、可能性を匂わせて男を囲わせる女が許せないし、自分を取り繕うためだけに陰キャに優しくして、裏で小馬鹿にする連中も許せない。


これを見て、少しでも思い当たる節がある人は、どうか陰キャが嫌いなら優しくせずに、ハッキリと嫌いだと言ってあげて欲しい。彼らは察っすることに対してとても鈍く、僅かな可能性に対する希望だけは捨てきれない。




ちなみに自撮り晒したことないので、自撮り晒すやつは軒並み女だと思ってるし、気持ち悪いのでとっとと○んだ方が世のため人のためだと思う。キモ。

幸福欠陥品

人間観察が趣味、なんて言ってる人の、単なる友達がいないだけの陰キャ率は100%を下回ることは無いと思ってる。

そして趣味でこそないが、僕も大学で孤立し、土地的にも友人から孤立しているので、自然と人間観察なんてものを無意識のうちにしてしまうようになってしまった。別に大学やバイト先といったリアルで観察できる場所に限らず、Twitterのような不特定多数のSNSですらその傾向がではじめたような気がする。



鳥は生まれ持った生き物特有の能力だけで、人間が永きにわたって出来なかった空の自由を持っている。人間は3次元の生き物なのに、道具を使わなければ2次元的な動きしかできない。しかし鳥は自分の所属する次元と同じ動きができる。

そしてこいつらに比べたら人間である自分は欠陥していると思う。



何ヶ月も前から部屋の地べたに寝転がり、窓からぼんやり見える空を飛ぶ鳥を見ながらそんなようなことを考えていたが、最近ではなにもこいつらに限った話では無いと思うようになってきた。
べつに鳥やら行動範囲の話やらに限らず、その辺の生き物は自由気ままに生きているなと思う。鳥は電柱から電柱へ、木から木へ飛び回り、草木に生きる虫ですら何にも縛られることも無く、死ぬまで自由に生きている。


人がなんのために生きているか、なんて考えたこともあったが、そもそもそれがおかしな話だということに気がついた。
周りに生ける生命体は、すべて生きるためになにか行動しているのに対し、人間は生きる目的なんてものを探している。
そしていつしか生きる目的が幸福を感じるためのものであると常識化され、幸福を感じるために努力するようになった。

幸福を感じられなくなると生きる意味がわからなくなり、やがては自分で自分を殺す個体まで出てくる始末だ。生命体として酷く欠陥していると思う。


冒頭の話に戻るが、最近やたらと人を観察、というより単純に観ることが増えた。
それで思ったのが、現状に幸福感を感じ、生きるための目的を明確にできている人はごく少数である、ということだ。当たり前だと思う。明確な幸福、特に未来を見越した安寧を前提とした幸福感は誰も保証してくれない。未来予知ができない以上当然だ。確固たる幸福な未来が来ることも、逆に自分に襲いかかる理不尽も明確に分からない。この分からない不安はきっと誰しもが抱えている。

実際に新型コロナウイルスが蔓延することなんて誰も予測できていない。 大学に通えず、心を病んだと垂れる人間も大勢出てくる始末だ。予想外の出来事に困惑し、不幸を感じ、心を病んでしまう。

どういうことが不幸だ、みたいな明確な幸福や不幸の定義が存在しない以上、以前までの自分と比較して良いか悪いかでしか幸福か不幸かを測れない。年収100万の人間がある日突然2倍の年収200万になれば、幸福を感じるだろうし、逆に年収1億の人間が、ある日突然年収5000万になれば不幸に感じるだろう。

世界には泥水を啜り、ボロ布を纏いながら、きっと幸福を感じる余裕もないまま生きるために生きている人間が数多くいる。
そんな人間が沢山いる中、満足に五体も衣食住も揃った人間が不幸を感じるのは、まさしく欠陥であると思う。

そしてまともに社会貢献もせず、大学に通いながらもそこをやめて別の大学へ行くために、苦痛を感じながら何年も自由に受験勉強している僕もだいぶ欠陥していると思う。


欠陥だらけだ。



最近何かと話題の鬼滅の刃の人気キャラクターである煉獄杏寿郎は、

老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ

と言って人間でいることに誇りを持ち、人間を賛美していた。作中の彼の言葉に従うのなら、これらの多くの人の欠陥も、美しさのひとつだと言うことが出来るのかもしれない。

頸に弱点を持たず、陽の光以外で死ぬ事がない鬼舞辻無惨は、唯一の弱点である陽の光を克服したいと考えていた。なぜならば生きるためである。当たり前の話だ。しかし、これはカマキリが生きるためにバッタを捕まえて食べるのと同じである。死なないため、生きるために行動する姿は、人ではなく、その辺の虫や動物に近いと感じる。まさに完璧に近い生命体であると言える。


生命体としては本来こうあるべきであるのかもしれないが、人だけが目的を持って生きようとする。目的が生きることではなく、別に存在する人という生き物は、生命体として欠陥しており思考を持つ人間として美しい存在なのだろうか

よく分からない。



それでも生きる目的もなく、本来の目的も分からなくなって、ただ大学に受かるために毎日を消費する人間は確実に欠陥しているし、美しくもないと思う。

当たり前になると、人はありがたみを忘れる

これを読んだ人の殆どは僕が中高6年を寮ですごしたことを既に知っているだろう。
そしてこの6年の中には、他の人が想像する以上に不自由なことが多くあった
...きがする。

このご時世に中学高校6年で電子機器類の一切の使用、持ち込みの禁止。これが一番厄介である。
一般的な中高生が当たり前に手にしているスマホだって持ち込めば没収され、契約を解約させられる。

もちろん僕は持ち込まずに向こうで仕入れて向こうで契約して使っていたが。


だが、これも不自由あっての出来事であり、一般家庭の中高生はまず自力でスマートフォンを中古で購入し、プリベイドのsimを使ったりしないだろう。

時間の面でも不自由は多い。ここに詳細を書くと長すぎるのでそれは略させてもらうが、日課という徹底的な時間管理で寮生は生活を縛られている。

縛られているといっても、別段慣れてくるとさして苦痛でもないのだが、これもまた不自由のひとつだろう。
最低限の生活しかできない不自由さあってこそ、自力で生活水準を高めるアイテムを揃え、舎監の目を盗んで自由な時間を無理やり作る行為にありがたみを覚えていた。

みなが使っているような高性能なスマートフォンでもなければ、学校帰りにちょっと寄り道したり、ゲームしたりなんて自由もないが、ミドルスペックのスマートフォンをネットオークションで入手し、バレないように無断外出したり、僕は持ち込んでいなかったが、内緒で持ち込んだゲームには、そのものや時間の価値以上にありがたみが生じる。


このありがたみを噛み締められたからこそ、制限付きな生活を最大限楽しむことが出来たのだと思う。

だが、今はどうだろう。そろそろ買い替えたいが2017年当初はハイエンドとモデルであった欲しかったスマートフォンを購入し、浪人という生活で自由な時間だらけになり、仮面という制限付きの大学ですら、勉学に対する制約は無に等しく、自由そのものだ。

ここ数年でありとあらゆる自由を感じた気がする。実際はまだまだ色んな人から守られている立場だが、金銭と時間とものの自由は寮生活をしていた時より十分に味わっていると思う。


腑抜けてしまった。


当たり前に自由を手にしたことにより、限られた自由へのありがたみが分からなくなった。
当時なぜネカフェに行くことが日々の楽しみだったのか分からない。
電波環境のない寮で、限られた時間だがネットに接続できたありがたみは既に分からないものとなった。
大人になるにつれ、自由が当たり前になり、モノの価値の水準が下がったのだろう。

昔は100円ひとつあれば駄菓子屋に駆け込めるという希望に満ちた金額であったと思うが、今現在の100円の価値は、1食分にすら満たないという絶望の金額である。ぶっちゃけ生活のスケールに比べたらはした金だ。
求めるもの、欲求、手に入れたものへの慣れ、この全てが人の心を腐らせ、腑抜けにさせてしまうのだ。


人間関係も同様だ。
仲良くなりたい人がいたとする。恋愛でもいい。
わかりやすいので恋愛で例えると、相手と仲良くなり、付き合うために人は尽力する。とにかくイベントを起こし、相手との接点を増やし、相手を理解し、相手とコミュニケーションをとる。
その過程で生じた僅かな会話時間、一緒に遊びに行った時間はその人にとってかけがえのないものになっているのではないだろうか。ありがたみを感じているのだ。

それが付き合ってみて当たり前になったらどうだろう。
当たり前のように日々を過ごし、その過程で会話し、出かける。
常に一緒にいると、煩わしさすら生まれる。もはやそこにありがたみの感情はない。1度できた亀裂のせいで、せっかくできたカップルは別れることとなる。
カップルの破局の原因なんてせいぜいこんなもんだろう。
慣れれば慣れるほど、ありがたみを感じる機会は減るのでこうなる可能性は増えていくと思う。

だからヤリチンとヤリマンはぽっぽこぽっぽこ恋人を取っかえ引っ変えしているんだろう。彼らの要求は高まる。彼らの気持ちはどんどん満たしにくいものへと変わっていく。

界隈の浪人生や大学生が大好きな話題だと思うが、非童貞、非処女がなんともつまらなく、度し難いものかはこれによって説明できるだろう。


恋愛に関する例で説明したが、先程も言ったように別に恋愛だけの話ではない。交友関係、知り合い、Twitterでの人間関係ですら成り立つと思う。


飽きるというやつだ。人はすぐ飽きる。
その時仲良かった人や、アイドル、あまり使いたい言葉ではないが、所謂"推し"ですら、いつかは飽きるし、どうでも良くなる。


自分勝手で醜く、酷い感情であると思う。

求める時は必死にもがき、手に入ると気持ちは冷めて扱いが杜撰になる。

こういうのを目にするのがいい加減うんざりしてきたので、これ以上深く人と関わりたくないと思う。



人に飽きられるのは悲しいことなのだが、人を飽きない責任を負うことの方が負担だ。
いつしか、人と関わる度にこいつが死ぬその時まで仲良くするつもりでないと関われないようになる気がする。