仮面(元)、1Kの隠れ家

心が暇なので、厨2病だった頃に思いを馳せて、痛々しいものを書きたい

当たり前になると、人はありがたみを忘れる

これを読んだ人の殆どは僕が中高6年を寮ですごしたことを既に知っているだろう。
そしてこの6年の中には、他の人が想像する以上に不自由なことが多くあった
...きがする。

このご時世に中学高校6年で電子機器類の一切の使用、持ち込みの禁止。これが一番厄介である。
一般的な中高生が当たり前に手にしているスマホだって持ち込めば没収され、契約を解約させられる。

もちろん僕は持ち込まずに向こうで仕入れて向こうで契約して使っていたが。


だが、これも不自由あっての出来事であり、一般家庭の中高生はまず自力でスマートフォンを中古で購入し、プリベイドのsimを使ったりしないだろう。

時間の面でも不自由は多い。ここに詳細を書くと長すぎるのでそれは略させてもらうが、日課という徹底的な時間管理で寮生は生活を縛られている。

縛られているといっても、別段慣れてくるとさして苦痛でもないのだが、これもまた不自由のひとつだろう。
最低限の生活しかできない不自由さあってこそ、自力で生活水準を高めるアイテムを揃え、舎監の目を盗んで自由な時間を無理やり作る行為にありがたみを覚えていた。

みなが使っているような高性能なスマートフォンでもなければ、学校帰りにちょっと寄り道したり、ゲームしたりなんて自由もないが、ミドルスペックのスマートフォンをネットオークションで入手し、バレないように無断外出したり、僕は持ち込んでいなかったが、内緒で持ち込んだゲームには、そのものや時間の価値以上にありがたみが生じる。


このありがたみを噛み締められたからこそ、制限付きな生活を最大限楽しむことが出来たのだと思う。

だが、今はどうだろう。そろそろ買い替えたいが2017年当初はハイエンドとモデルであった欲しかったスマートフォンを購入し、浪人という生活で自由な時間だらけになり、仮面という制限付きの大学ですら、勉学に対する制約は無に等しく、自由そのものだ。

ここ数年でありとあらゆる自由を感じた気がする。実際はまだまだ色んな人から守られている立場だが、金銭と時間とものの自由は寮生活をしていた時より十分に味わっていると思う。


腑抜けてしまった。


当たり前に自由を手にしたことにより、限られた自由へのありがたみが分からなくなった。
当時なぜネカフェに行くことが日々の楽しみだったのか分からない。
電波環境のない寮で、限られた時間だがネットに接続できたありがたみは既に分からないものとなった。
大人になるにつれ、自由が当たり前になり、モノの価値の水準が下がったのだろう。

昔は100円ひとつあれば駄菓子屋に駆け込めるという希望に満ちた金額であったと思うが、今現在の100円の価値は、1食分にすら満たないという絶望の金額である。ぶっちゃけ生活のスケールに比べたらはした金だ。
求めるもの、欲求、手に入れたものへの慣れ、この全てが人の心を腐らせ、腑抜けにさせてしまうのだ。


人間関係も同様だ。
仲良くなりたい人がいたとする。恋愛でもいい。
わかりやすいので恋愛で例えると、相手と仲良くなり、付き合うために人は尽力する。とにかくイベントを起こし、相手との接点を増やし、相手を理解し、相手とコミュニケーションをとる。
その過程で生じた僅かな会話時間、一緒に遊びに行った時間はその人にとってかけがえのないものになっているのではないだろうか。ありがたみを感じているのだ。

それが付き合ってみて当たり前になったらどうだろう。
当たり前のように日々を過ごし、その過程で会話し、出かける。
常に一緒にいると、煩わしさすら生まれる。もはやそこにありがたみの感情はない。1度できた亀裂のせいで、せっかくできたカップルは別れることとなる。
カップルの破局の原因なんてせいぜいこんなもんだろう。
慣れれば慣れるほど、ありがたみを感じる機会は減るのでこうなる可能性は増えていくと思う。

だからヤリチンとヤリマンはぽっぽこぽっぽこ恋人を取っかえ引っ変えしているんだろう。彼らの要求は高まる。彼らの気持ちはどんどん満たしにくいものへと変わっていく。

界隈の浪人生や大学生が大好きな話題だと思うが、非童貞、非処女がなんともつまらなく、度し難いものかはこれによって説明できるだろう。


恋愛に関する例で説明したが、先程も言ったように別に恋愛だけの話ではない。交友関係、知り合い、Twitterでの人間関係ですら成り立つと思う。


飽きるというやつだ。人はすぐ飽きる。
その時仲良かった人や、アイドル、あまり使いたい言葉ではないが、所謂"推し"ですら、いつかは飽きるし、どうでも良くなる。


自分勝手で醜く、酷い感情であると思う。

求める時は必死にもがき、手に入ると気持ちは冷めて扱いが杜撰になる。

こういうのを目にするのがいい加減うんざりしてきたので、これ以上深く人と関わりたくないと思う。



人に飽きられるのは悲しいことなのだが、人を飽きない責任を負うことの方が負担だ。
いつしか、人と関わる度にこいつが死ぬその時まで仲良くするつもりでないと関われないようになる気がする。