仮面(元)、1Kの隠れ家

心が暇なので、厨2病だった頃に思いを馳せて、痛々しいものを書きたい

幸福欠陥品

人間観察が趣味、なんて言ってる人の、単なる友達がいないだけの陰キャ率は100%を下回ることは無いと思ってる。

そして趣味でこそないが、僕も大学で孤立し、土地的にも友人から孤立しているので、自然と人間観察なんてものを無意識のうちにしてしまうようになってしまった。別に大学やバイト先といったリアルで観察できる場所に限らず、Twitterのような不特定多数のSNSですらその傾向がではじめたような気がする。



鳥は生まれ持った生き物特有の能力だけで、人間が永きにわたって出来なかった空の自由を持っている。人間は3次元の生き物なのに、道具を使わなければ2次元的な動きしかできない。しかし鳥は自分の所属する次元と同じ動きができる。

そしてこいつらに比べたら人間である自分は欠陥していると思う。



何ヶ月も前から部屋の地べたに寝転がり、窓からぼんやり見える空を飛ぶ鳥を見ながらそんなようなことを考えていたが、最近ではなにもこいつらに限った話では無いと思うようになってきた。
べつに鳥やら行動範囲の話やらに限らず、その辺の生き物は自由気ままに生きているなと思う。鳥は電柱から電柱へ、木から木へ飛び回り、草木に生きる虫ですら何にも縛られることも無く、死ぬまで自由に生きている。


人がなんのために生きているか、なんて考えたこともあったが、そもそもそれがおかしな話だということに気がついた。
周りに生ける生命体は、すべて生きるためになにか行動しているのに対し、人間は生きる目的なんてものを探している。
そしていつしか生きる目的が幸福を感じるためのものであると常識化され、幸福を感じるために努力するようになった。

幸福を感じられなくなると生きる意味がわからなくなり、やがては自分で自分を殺す個体まで出てくる始末だ。生命体として酷く欠陥していると思う。


冒頭の話に戻るが、最近やたらと人を観察、というより単純に観ることが増えた。
それで思ったのが、現状に幸福感を感じ、生きるための目的を明確にできている人はごく少数である、ということだ。当たり前だと思う。明確な幸福、特に未来を見越した安寧を前提とした幸福感は誰も保証してくれない。未来予知ができない以上当然だ。確固たる幸福な未来が来ることも、逆に自分に襲いかかる理不尽も明確に分からない。この分からない不安はきっと誰しもが抱えている。

実際に新型コロナウイルスが蔓延することなんて誰も予測できていない。 大学に通えず、心を病んだと垂れる人間も大勢出てくる始末だ。予想外の出来事に困惑し、不幸を感じ、心を病んでしまう。

どういうことが不幸だ、みたいな明確な幸福や不幸の定義が存在しない以上、以前までの自分と比較して良いか悪いかでしか幸福か不幸かを測れない。年収100万の人間がある日突然2倍の年収200万になれば、幸福を感じるだろうし、逆に年収1億の人間が、ある日突然年収5000万になれば不幸に感じるだろう。

世界には泥水を啜り、ボロ布を纏いながら、きっと幸福を感じる余裕もないまま生きるために生きている人間が数多くいる。
そんな人間が沢山いる中、満足に五体も衣食住も揃った人間が不幸を感じるのは、まさしく欠陥であると思う。

そしてまともに社会貢献もせず、大学に通いながらもそこをやめて別の大学へ行くために、苦痛を感じながら何年も自由に受験勉強している僕もだいぶ欠陥していると思う。


欠陥だらけだ。



最近何かと話題の鬼滅の刃の人気キャラクターである煉獄杏寿郎は、

老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ

と言って人間でいることに誇りを持ち、人間を賛美していた。作中の彼の言葉に従うのなら、これらの多くの人の欠陥も、美しさのひとつだと言うことが出来るのかもしれない。

頸に弱点を持たず、陽の光以外で死ぬ事がない鬼舞辻無惨は、唯一の弱点である陽の光を克服したいと考えていた。なぜならば生きるためである。当たり前の話だ。しかし、これはカマキリが生きるためにバッタを捕まえて食べるのと同じである。死なないため、生きるために行動する姿は、人ではなく、その辺の虫や動物に近いと感じる。まさに完璧に近い生命体であると言える。


生命体としては本来こうあるべきであるのかもしれないが、人だけが目的を持って生きようとする。目的が生きることではなく、別に存在する人という生き物は、生命体として欠陥しており思考を持つ人間として美しい存在なのだろうか

よく分からない。



それでも生きる目的もなく、本来の目的も分からなくなって、ただ大学に受かるために毎日を消費する人間は確実に欠陥しているし、美しくもないと思う。